ショーペンハウアーの「幸福について-人生論-」橋本文夫=訳(新潮文庫)という本を読みました。書かれたのは、1851年で今から150年以上前ですが、今の筆者の心情に非常にマッチしている部分が多かったので、当ブログに数回に分けて記載します。
本記事の要約と筆者の感想
先にまとめを書きますと、現代社会においては、幸福=高い年収を同一視しがちです。最低限の生活を送るために、お金が必要なことは言うまでもありませんが、必要以上のお金があっても幸福にはなれません。
幸福になれるかどうかは、生まれながらの性格に規定されており、後から変えられるものではない。そもそも幸福になるという人生の目的自体が間違っている。という話です。
この本では幸福さとは朗らかさであり、享楽を享受できる生まれながらの性格に依存していると書いています。言い換えれば、何に喜びや楽しさを感じるか?ということは人それぞれ違うという事でもあります。
ですので、世間の常識に囚われずに、自分の喜びを感じられることを全力をかけて見つけ出すことが重要なのかなと思いました。(もちろん法律違反を犯さない、人に迷惑をかけないというの大前提です。)
幸福になるとはどういうことか?
人間は幸福になるために生きているというのは迷妄である
いきなりここから始まります。我々は人生とは幸福になるため、楽しく過ごすために生きていると考え、それが達成できないことのギャップに苦しみがちですが、そもそも幸福になるために人生があるわけではないとのことです。
人間の幸福の在り方は、生まれながらの頭脳の差異によって決定される。頭脳次第で世界は貧弱でつまらないものにもなれば、豊かで面白いものにもなる
個性によって人間の与えられる幸福の限度があらかじめ決まっている。ことに精神的能力の限界によって高尚な享楽の能力が永遠に釘付けされている
人生の愉悦を享受する、すなわち人生を楽しく過ごすための能力そのものが、個々人の脳により規定されており、後天的に変えられるものではない。
すなわち楽しく生きられる人は生まれながらにして楽しく生きられるし、暗い人は生まれながらにして暗いということで、先天的な性格は後からは変えられないという事です。
われわれを最も幸福にしてくれるのは、心の朗らかさ。陽気な人は常に陽気である原因がある。その原因とは他でもない。彼が陽気であるという事なのだ。
「多く笑うものは幸福だ、多くなく物は不幸だ」と昔の書物に書いてあったが、いかにも月並みでありながら、単純平明な真理性
笑っている方が幸福感を感じるというのはおそらく間違いないでしょう。そして人は何に対して面白いと感じるか、また面白いと感じやすいか、というのは先天的な性格に規定されており、それ以外の原因はないとのことです。
感受性が異なる結果、甲の人間ならほとんど絶望するようなことに出会っても、乙の人間は平気で笑っているということがある。しかも不快な印象に対する感受性が強ければ強いほど、快適な印象に対する感受性は弱いし、またその逆も言える。陰気な人間は十の計画のうち九までが成功しても、この九を喜ばずに、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間はこれと逆の場合にも、一の成功で自らを慰め、自分を明朗な気分にするコツを心得ている。
これもまさにわかります。筆者はまさに陰気な人間の典型例です。一方、筆者の妻は陽気な人間なので、どうしていつもそんなに前向きなのか、嫌なことをすぐなかったことにできるのか、見ていて羨ましいです。
この違いは生まれつきの性格としか言いようがないです。
ところが陰気な人間は陽気な人間と比べて、想像上の苦悩や災難は多く経験させられたとしても、現実の災難や苦悩をなめさせることはむしろ少ない。それは、万事を悲観的にみて、絶えず最悪の場合を気遣い、したがって適当な予防策を講ずる人間は、誤算をしていたということが少ないためであろう。
これは筆者が自分の強みだと考えているところです。筆者の仕事であるプロジェクトマネジメントにおいては、いかに計画段階で、計画を緻密に立てられるか、また予想されるリスクを洗い出せるかが大事ですが、まさに万事を悲観的にみて、あらゆる最悪の事態を考えているからこそできることです。
朗らかさがやってきたときはどんな場合にでも門扉を開くがよい。あらゆる点で満足してよいか知りたい気持ちから、あるいは真剣な熟慮は配慮が朗らかさのために妨げられないかという懸念から、朗らかさを受け入れることをためらう事はよくあるが、それはよくない
朗らかさは直接的な利益になる。直接、現在において幸福を与えるものは朗らかさ以外にないのだから。われわれはこの財産の獲得増進を他のどんな財産よりも重く見るべき
筆者はまさに朗らかさを否定するタイプです。一度、満足してしまうとそれ以上は成長できないと考えていたためです。正社員時代の上長評価面談でも「なんで褒めてるのに、そんなに否定的なのか?」とよく言われていました。
ですが、この考え方が幸福を享受するという観点からは、誤っていたのかもしれません。たしかに朗らかさを享受するというゴールに向かって成長を志していたはずなのに、いつのまには目的と手段が逆転していたといえるかもしれません。
でも朗らかさが先天的な性格だとすると、後天的な朗らかさの獲得増進というのはどうすればよいのか?
幸福とは健康を獲得する事
朗らかさにとって富ほど役に立たぬものはなく、健康ほど有益なものはない。だからわれわれとしては、なによりもまず高度な完全な健康を得て、そこから朗らかさがわきでるように心がけるがよかろう。そのためには極端で持続的なストレスを避け、適度な運動を心掛けるのが良い。
自分の先天的な性格は変えられないけれど、朗らかさを獲得するために後天的に働きかけられるのは健康を獲得すること。そのためには、過度で持続的なストレスをためずに、適度な運動をし、暴飲暴食をしないこと。
お金を得るためや周囲の印象を懸念しに、嫌な仕事やブラック企業で無理して働いても幸福にはなれない。むしろ大事な資産である健康を害することになり、その後の人生が台無しになる。
お金があっても幸福にはなれない
必要で適当な生活の富を得ることを怠るべきではないが、有り余る富は我々の幸福に寄与することろはない
金持ちに不幸な思いをしている人が多いのは、本当の精神的教養や知識がなく、したがって精神的な仕事をなしうるような何らかの客観的な興味を持ち合わせていないから
今の世の中で生きていくためには、最低限のお金は必要です。お金がないと、幸福がどうのこうのなど、そんな悠長なことは言ってられません。生きるので精一杯です。
ですがそれ以上のお金は必要なのでしょうか?
(筆者は決して金持ちというわけではないですが)フリーランスとして独立して、ある程度の収入と自由な時間を手に入れると、会社勤めの苦痛からは解放されましたが、今度は退屈に襲われるようになりました。
この表現を借りると、筆者は本当に愉悦を享受するという能力を欠いているのだなと思います。
生活苦との戦いを切り抜けた人たちも、結局は、まだ生活苦にあえいでいる人たちと同じ不幸な思いをしていることが多い。内面の空虚、意識の希薄、精神の貧困が彼らを駆って社交界に走らせる。
この原因は精神の貧困と空虚から起きる退屈以外の何物でもない。外面的には金持ちに生まれても、内面的には貧乏に生まれたわけで、何でもかんでも外部から取り入れて、外面的な富に内面的な富の代わりをさせようとしたがどうにもならなかった。
生活苦と同じとまでは言えませんが、この様な苦痛を抱えている人も現にいらっしゃると思います。
もしくは、会社に一生を捧げて定年退職した高齢者の方などもこういった心境に近いのかもしれません。会社に勤めすぎたせいで、内面的に愉悦を享受する能力を失っている。
富によってなしうることと言えば、現実の自然な欲望を満足させる以外に、われわれの本当の幸福感にとっては影響の少ないことばかりで、むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生じる数々の心労のために、かえって幸福感が損なわれる
これはわかります。月の収入が右肩上がりであがっていくと、いつのまにかその収入が最低限得るべき収入と頭の中でなってしまい、それが達成できなければ、すごいストレスになります。本来はそんなに稼がなくてもよいはずなのですが。。。
富を稼ぐための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとにでれば何一つ知らない。精神は空っぽで、そのため他のものはいっさい受けつける力がない。暇はかからないで金のかかる刹那的、官能的な享楽を合間合間にむさぼって最高級の享楽の埋め合わせをしようとするけど、一向埋め合わせにはならない
いや、まさにそうです。ショーペンハウアーさんは本当に凄い。筆者は、20代のころからスキルアップして年収を上げるという目標を掲げて、色々な活動(会社での付き合いや、家族サービスなど)を放棄してきました。
ですが、正確に言うと、先天的な性格として人づきあいが苦手だから、それらを避けたくて、スキルアップにのめり込んでいたという方が正しいのかもしれません。
いずれにしろ、ある程度目標を達成した今となっては、エネルギーが空っぽになってしまいました。
本日はここまでとします。続きは後日記載します。