本記事では人間の幸福について、筆者が思うところをまとめたいと思います。
筆者は、独立して自由に仕事をするという目標を達成しながら、達成後は毎日の退屈さを感じながら日々を暮らしています。そんな中で、最近ショーペンハウアーにはまり、幸福論についてあれこれと考えている人間です。
現在の幸福には4種類ある
苦しみに対する相対的な幸福
筆者は現代の幸福には4種類の幸福があると思っています。1つ目は、苦しみに対する相対的な幸福です。
仕事が嫌で仕方がない、ストレスが溜まっている、プレッシャーを感じている、上司が嫌だ、満員電車が嫌だ、でも生活のためや世間の常識に照らして我慢して仕事を続けている。
そんな状態に対して、休日や自分の時間を過ごせればホッとできる、リラックスできる。その様な幸福感です。
ですが、この幸福感はあくまで相対的なものです。嫌な仕事があるという事が前提条件になっており、仮に嫌な仕事がなくなったと仮定すると、それに応じて幸福感も失われます。
仮に自由を手に入れて毎日が休日だと、幸福感を感じるのは最初の数日だけです。それ以降は、だらだらすることに虚しさを感じます。なんのために生きているのか?と考えることが多くなります。要は退屈なわけです。
この退屈感は決して甘く考えてはいけなくて、自分で自分の退屈と向き合うためには、自己を律するための強い決意が求められます。
それがないと、せっかく手に入れた自由を自ら放棄したり(たとえば一度独立したのに正社員として再就職したり、暇な時間を作らないために膨大な仕事を入れて体を壊したり、人間は周りからやるべきことを指示してもらえると楽なのです。)、退屈に耐えられずアルコールやギャンブルに走って、人生を棒に振るような人もたくさんいます。
目標に向かって努力する幸福
これは目標を設定して、それに向かって努力していく仮定での幸福感です。充実感と言い換えてもいいかもしれません。わき目もふらず目標に邁進している姿は周りから見てもかっこよく見えます。
ですがこの幸福感が続くのは目標を達成するまでです。いざ目標を達成してみるとその後に残るのは虚しさです。
これは脳のメカニズム的にもわかりやすくて、脳は目標(欲求)を達成するためにドーパミンを放出しますが、目標を達成するとドーパミンの放出が止まるからです。
これを回避するために、新たな目標を設定して達成に向けて努力していくという考え方もありますが、脳の性質上、再度ドーパミンを放出するためには、最初の目標より大きな目標が必要となります。また単純に年齢を重ねていくと新たな目標に向けて努力するという気力すら萎えてきます。
そうなると過去の充実していた時を思い返しながら、現在は充実感を得られていないことに対して、虚しさを感じ続けて生きていくことになります。
理由はないけどどにかくやりたいことをやる幸福
3つ目は、理由はないけどとにかくやりたいことをやる幸福です。何か物を作りたい、DIYしたい、執筆活動をしたいなど、自分本来の生まれながらにしてやりたいことをやり続ける幸福です。
この生まれながらにしてやりたいことというのは、根源的に自分の性格(脳の構造)に紐づいた欲求なので、飽きることがないです。そのため、この欲求を満たせる方法に出会えた人は最も幸福な人かと思います。
問題なのは、世の中の人間全員がこの欲求を満たせるわけではないということです。
この欲求は誰もが本来は備えているかもしれませんが、社会にまみれて、常識を身に付ける過程で自分でも自分が何が好きなのかわからなくなってしまったり、わかってはいるけど社会常識と照らし合わせて、欲求を実現できない人というのもたくさんいるかと思います。
例えば、根源的にお金を設けたり、ビジネスを展開したり、会社を大きくすることに幸せを感じるような人は恵まれた人といえます。なぜならそれは現代の資本主義という構造にマッチしているからです。自分の好きなことをしながら、かつ社会に認められるというこれ以上、幸せな人はいないかと思います。
一方、極端な例ですが、人をバラバラにしたいという殺人欲求を抱えている人は、今の世の中では欲求を満たすのは困難です。言うまでもなく、この人が欲求のまま行動したら社会が成り立たなくなるので、この人は自分の欲求を抑えながら生きていくしかありません。
これは極端な例ですが、資本主義という社会の構造と自分の根源的な欲求が一致していない人はたくさんいるのではないでしょうか。
こういった人は、社会常識に照らして許容可能な範囲でうまく欲求を解消する術を見つけないと、ずっと満たされない人生を歩むことになるような気がします。
意志の力から抜け出すことによる幸福
今まで述べてきた3つは、人間本来の意志(人間が生きるために無意識に働く力)に沿って、その欲求を満たすことにより、幸福感を得ようとする試みでした。
しかしながら意志の力が働くからこそ不幸になるという考え方もあります。たとえば無意識のうちに、将来に不安を感じたり、過剰な心配事からストレスを感じたり、孤独になることに怯えたり、欲望に囚われて過剰に執着してしまうなどです。
これらの力は本来は人間が生き残るために脳が進化した結果ともいえます。たとえば狩猟時代であれば、不安を感じず慎重に行動できない人間はすぐに殺されていたでしょうし、孤独に怯えない人間は集団行動ができないので孤立して直ぐに死んでいたでしょう。そういった慎重で集団行動に適した人が生き残ってきた結果とも言えます。
ですが、平和な現代にあってはこの力が逆に幸福になることを阻害しているという考え方もできます。
そこで意志の力を断ち切ることにより幸福を感じるという考え方があります。最も分かり易い例が、瞑想かと思います。放っておいたら無意識の力であれこれ勝手に妄想する脳をコントロールして、幸福感を得ようという考え方です。
(意志の力を抑えることによりなぜ幸福感を感じるかは筆者もよくわかっていませんが、何千年も前から様々な著名人が同じことを言っているので、間違いはないのでしょう。脳科学的な観点でわかる方がいらっしゃれば是非教えていただきたいです。)
そもそも幸福な状態というのは生物としてあり得ないのでは?
幸福についてあれこれと記載してきましたが、世の中では人間として生まれたからには全員が幸福になるべきだという考えが、当たり前のように刷り込まれています。ですが本当にそうなのか?という疑問もあります。
自分が幸福かどうか?というのを考えられるのは端的に言えば暇だからです。仮に常に生死がかかっている状況に置かれていたらそんなことを考える余裕はありません。そして、そのような暇な状況に多くの人が置かれたのは、ここ数百年の話しです。
それ以前は(一部の貴族などを除いて)その日を生きていくのに精一杯で将来の幸福について考える暇などなかったかと思います。一部の恵まれた暇な人たちが哲学などをやりだして、人間の幸福について考え始めたのです。
そう考えると幸福になるというのは人間本来の機能として備わっていないと考えられます。もともと機能として備わっていない状態になること求めているので、幸福になるのは無理なのでは?という理屈になります。
人間として生まれたからには幸福になるべきだ!というあるべき論にあまり囚われすぎると、逆に満たされないことに対してストレスが溜まって不幸になるような気もします。
幸福とは何か?ということを考えずに、今の自分に安住している。この状態が一番幸せと言えるかもしれません。